神の神秘と神の本質・神格からのキリストに謙遜たれ
◆米国への英語メッセージ
◆2026年10月4日 台湾聖殿 <>
文亨進二代王
2nd King 10 04 26 America Message
Translation: The son of Mihara
ウーシア論、新しい伝統・初期の段階
皆さん、おはようございます。私たちは日本の東京からお届けしています。
ここでは多くの新しい摂理が動いています。特に異端者、韓に裁きが下ってから、多くの人たちが戻ってきています。そして真のお父様が、いま世界全体の状況を完全に作り変えておられます。
今週は、多くの人たちがウーシア(Ouzia)とエネルゲイア(Energeia)、つまり本質とエネルギーについて話していました。私は國進様や、西洋の多くの兄弟姉妹たちと話をしました。
皆さんにとっては、こうしたことを考えること自体が初めてだからです。
原理は三位一体論について一段落しか語っていません。一段落の中で、そのすべてを説明することはできないのです。
ですから、覚えておかなければなりません。私たちは新しい伝統であり、新しい宗教です。
文字通りまだ二代目にすぎず、ごく初期の段階にいます。
ですから経験がなく、初心者なのです。これについて考えている皆さんの多くは初心者です。
こうした問題について考え始めたばかりで、主要なカテゴリーさえ理解していません。主要なカテゴリーを取り違えているのです。
神の神秘
たとえば「神の神秘」と言うとき、2,000年にわたってキリスト教徒は、それを神についての無知という意味で使ってきたのではありません。
何かの情報で埋めれば、この問題が解決するという意味ではないのです。
そうではなく、神の神秘、つまり神の神秘をめぐる議論や言葉づかいの全体が意味しているのは、謙遜、神の前での霊的な謙遜です。
私たちは他人の心さえ理解できないということです。それなのに、どうして神の内側の働き、神の心の内側の働きを理解できるでしょうか?
他人についてさえ、それは理解できないのです。
ですから、神の神秘と言うとき、それは「ああ、これは無知のことだ。だから今や、言葉を一つ当てはめて解決した。真の愛で解決した」というようなことではありません。
こうした問題は、そのようにして解決するものではありません。何かを当てはめることとは何の関係もないのです。カテゴリーを取り違えています。
神の神秘ということのすべては、私たちが霊的に謙遜であること、神の前で霊的に謙遜であり続けなければならないということを意味しています。
神格「夜の神」から来られたキリスト真のお父様
そして、キリストである真のお父様だけが、神格を完全に理解できるということです。誰も神格を理解することはできません。神格とは、神を神たらしめるものです。お父様はそれを「夜の神様」と呼ばれました。
では例として、ここにある東京の黒板を使って図を描いてみましょう。
これが神格だとします。これが神格、お父様の言われた夜の神様です。
そしてお父様は、神格から来られるのはキリストだけだ、夜の神様から来られるのはキリストだけだと言われました。
それ以外のものはすべて、昼の神様から来ています。こちらが昼の神様だとしましょう。つまり創造の後、創造以後です。こちらが創造以前、こちらが創造以後です。
自分は神格を知っていると言うこと、それこそ皆さんの多くが犯している問題です。
ところで、私はレジス牧師に、「自分が神秘主義のキリスト教徒だ」と言ったことはありません。
私が言ったのは、「学者たちは私を神秘主義のキリスト教徒と呼ぶだろう」ということです。
なぜでしょうか?
私は、神についてすべてを知ることはできない、特に神の本質を知ることはできないと悟る程度には、霊的に謙遜だからです。
なぜなら私はキリストではないからです。
皆さんもそうです。誰もキリストではありません。
お父様をチャネリングしていると主張しようとする異端のグループは、文字どおり神の本質を知っていると言います。
これが問題なのです。
彼らは、自分たちは神格と接触し、交わっていると言います。神格と交わっているのはキリストだけです。このことを理解しなければなりません。
神の本質と本性、示すことしかできない
本質について語るというのは、歴史的な意味を持つ問題を語ることです。
そうした問題を語るときに、このようなカテゴリーの誤りを犯してはなりません。
皆さんの多くが「神の本質は真の愛だ」と言おうとしていますが、お父様はそのような言葉を一度も使われていません。
韓国語の「本質(본질, ポンジル)」は、本質、ウーシアを意味します。
お父様はその言葉を一度も使われていません。
お父様がいつも使われたのは「本性(본성, ポンソン)」です。
統一原理も「神の本性」についてしか語っておらず、それは性相という意味です。形状と性相について語るとき、その英訳は性相(internal character)と形状(external form)です。
ですから、これらのカテゴリーを混同してはいけません。
三位一体論や本質について語るとき、私たちは神格について語っているのです。特性について語っているのでも、神の性相、すなわち真の愛について語っているのでもありません。
神の性相の核心は、言うまでもなく真の愛です。しかし、私たちが語っているのは本質です。本質とは、神を神たらしめるものです。
できるのは、たとえを示すことだけです。数学を使おうが、あれこれのたとえを持ち出そうが関係ありません。たとえはすべて、どこかで破綻します。不十分なのです。たとえにすぎないのです。
そして、神を描写するときに、「ああ、これは神の真の愛だ。私は発見した。神秘をすべて解き明かした」と言うような誤りを犯してはなりません。
そうではありません。それに描写の言葉を一つ当てはめただけです。
「真の愛」という言葉は、神を描写する言葉です。
そして言葉、つまり描写する言葉は、存在論的に、描写される対象そのものではありません。分かりますか。それらは別のものです。私たちにできるのは、それを指し示すことくらいです。
なぜでしょうか?私たちの知性には限りがあるからです。
私たちの脳は、アリのように小さいのです。シロアリの脳のようなものです。
私たちの意識は、他人の心の内側の働きさえつかめません。
ましてや、この途方もない宇宙の創造主の心などつかめるはずがありません。そのことを理解しなければなりません。
では仮に、自分は知っている、自分は神格と交わっていると言い、「神の神格は真の愛だ」と言うとしましょう。
では、真の愛は善でしょうか、悪でしょうか?善でしょうか、悪でしょうか?
当然、善です。
そうすると、神の本質の中には、善である部分もあることになります。
また、神の本質の中で、真の愛は犠牲的だと言えるでしょうか?
はい、犠牲的です。
そうすると、そこには犠牲、つまり神的な犠牲という要素があることになります。
神的な犠牲という要素があり、真の愛の中には神的な善という要素があるのです。
また、真の愛は正義にかなっていると言えるでしょうか?つまり、正義をもって与えられるということです。
そうであれば、ここには正義があることになります。
こうして、いくらでも続けることができます。
真の愛には意志があるのでしょうか?
神が他のために生きるとき、神の意志は真の愛とつながっているでしょうか?
ところで、お父様は真の愛を、能動的な動詞の形で説明されていますね。他のために生きる。他のために犠牲になる。与えて与えて、これ以上与えられないほど与える。
これは明らかに能動的な動詞です。つまりそれは、神の働き、すなわち神のエネルギーの方により近いということです。
西洋キリスト教の問題
いずれにせよ、「神格を発見した。それが本質だと分かった。それは真の愛だ」と言うとしましょう。
ところが、いま見たように、真の愛の中には善があります。悪ではありません。神的な正義があることも分かりました。
神的な…これは何でしたか?
神的な犠牲があることも分かりました。さらに、意志という要素もあります。
まあ、時間が足りなくなってきました。
ですが、ここはいくらでも続けられます。
ここでの問題は、神格、つまり神のウーシア、神を神たらしめるものの中に、それぞれ異なるウーシアである多くの下位の部分があることになってしまう点です。
それらは別個のウーシアです。そうなると、複数の神がいることになってしまうのです。
ちなみに、もしここに入ることができ、ここで自由に動き回り、これを知り、希望を持ち、これと交わることができるというなら、それは自分が神だと主張していることになります。
これを混同し続けている人たちに、私が繰り返し言っているのはそのことです。神格を完全に知ることができると言うなら、それは自分が神だと主張していることになります。
なぜなら、神の心の内側、つまり神を神たらしめるものを完全に理解できるのは、神だけだからです。
私たちは被造物です。罪があります。創造主を、その満ちあふれる姿のまま知ることはできません。
極限の数学を使おうが、どんなたとえを使おうが関係ありません。それらはすべて言語です。数学も言語であり、ほかのどんな言語も同じです。
それらはすべて、神を指し示すものです。
ですから、もし神の内にこうしたもの、つまり神のウーシアすなわち本質の中に異なる複数のウーシアがあるとするなら、問題に突き当たることになるのです。
ここで、西洋のキリスト教、つまりカトリックやプロテスタントは、トマス主義哲学やペリパトス派の公理によって学んできたために、大きな神学的問題に突き当たります。
それが予定説と自由意志の破壊につながるのです。
なぜでしょうか?見てみましょう。
この中には犠牲があり、善があり、意志があります。それが神格の中にあるなら、その意志は変わることがありません。
つまり意志はすでに形成されていて、変えることができないのです。外からの影響を受けることもありません。
神の本質は外から影響を受けることがないからです。外から変えられることもありません。
そうなると、あらかじめ定められた意志ということになります。これが西洋の伝統が抱えている問題です。
あらかじめ定められた意志があることになるのです。
そして結局、非常に急進的な形の予定説になり、それによって自由意志が失われ、破壊されるという急進的な形になります。
だからこそ、彼らの多くは決定論者なのです。彼らは、私たちに自由意志という性質があるとは実際には信じておらず、それは神によって決定されていると考えています。
そしてアメリカでは、特に繁栄の福音(Prosperity Gospel)やアンドリュー・カーネギーの「富の福音(the gospel of wealth)」において、こういうことが起きています。
彼らはこの予定説の伝統から来ているので、「自分が滅びるのか、救われるのか?どうやって分かるのか?それは神の寵愛を受けているかどうかで分かる。だから富や財産をたくさん持っていれば、それは神の寵愛を受けている証拠だ」と言うのです。
そしてこれが、この100年間アメリカを支配してきたプロテスタンティズムであり、それが明らかにシオニズムに乗っ取られました。
それがどこへ行き着いたかを私たちは見てきました。この根本的な誤りのために、明らかに崩壊しているのです。
神格から来られたキリストに謙遜となる
これがなぜ重要なのか?
神格は、お父様が言われたように、キリストだけが来られるところだからです。皆さんの誰もそこから来たのではありません。私たちの誰も、そこから来たのではないのです。
そして私たちの誰も、それを完全に理解することは決してありません。
理解できると言うなら、それは霊的な傲慢、思い上がりと呼ばれるものです。
霊的生活の根本的な実践は、キリストの前での霊的な謙遜です。
だからこそ、私たちはキリストにすがるのです。だからこそキリストに懇願するのです。
だからこそキリストの言葉は、絶えず開かれていく美しい神秘なのです。
無知という意味での神秘ではありません。
キリストの前に立つとき、自分はキリストではなく、神ではないと理解して、その前で謙遜になる。そういう意味での神秘なのです。
このことを理解すれば、神格はキリストのために取っておかれていることが理解できます。神格はキリストと交わり続けているのです。
しかし、この神格から、太陽の光線のように、さまざまな働きが出てきます。こうしたさまざまな働きです。他のために生きることも、そこから出てきます。善、神的な正義、意志、そのほかのあらゆるものもそうです。
そして、私たちの霊的な訓練があります。謙遜、悔い改め、「お父様、ありがとうございます」と絶えず感謝の祈りを捧げ、すべてのこと、一つひとつの呼吸についてお父様に感謝すること、精誠を尽くすこと、霊的な苦行、断食、霊的な鍛錬、そうしたあらゆることです。
こうした訓練を、お父様は精誠と呼ばれました。お父様が最も好まれた言葉は精誠という字で、それは自分の言葉を実体化するという意味です。
神秘、霊的な謙遜こそが根本
私たちの伝統の問題は、頭でっかちな人があまりにも多いことです。
自分は宇宙全体について何でも知っている、すべての秘密を解き明かしたと思っている。
それなのに、夫婦関係さえうまく保てない。子どもとの関係さえうまく保てない。人との関係さえうまく保てない。これが問題なのです。
これは霊的な思い上がりです。共同体として、自分たちは何でも知っている、すべての知識を持っていると思って歩き回るわけにはいきません。
人々はそんなことには感心しません。私たちがどう振る舞うかを見るのです。
私たちは夫婦関係において、どのようにキリストの模範となっているでしょうか?
私たちの夫婦関係から喜びが溢れ出ているのでしょうか?
私たちの人生は、祝福を受け、また互いに祝福し合う中で、本当に輝きを放っているでしょうか?
子どもたちは私たちの導きのもとで成長しているでしょうか?それとも萎縮し、不満を抱え、怒っているでしょうか?
このことをはっきりさせなければなりません。
神学のことばかり話しているわけにはいきません。これが、頭でっかちな人たちの多くが抱える問題です。いつもあれこれ話したがります。
こうしたことは実践し、訓練し、そしてにじみ出させなければなりません。そうでなければ伝道はできません。誰もついてこないのです。大口を叩いているだけだからです。
「自分は宇宙よりも多くを知っている」というわけです。
量子物理学の創造主の心の内側の働きを知っていると主張するのですから、量子物理学よりも多くを知っていることになります。
何という信じがたい思い上がりでしょうか!
私の心の内側の働きさえ、ましてや他の誰かの心でさえ確実には知ることができないのに、ましてや量子の世界を創造した創造主の心など知ることはできません。量子物理学さえ完全には理解できません。それについての理論があるだけです。
ですから、これが私たちの教会の問題なのです。私たちはまだとても若いので、霊的に傲慢なのです。
霊的な生活には、強い夫婦関係と強い家庭を築くうえで非常に重要なものがあります。それが霊的な実践です。
だからこそ訓練がとても重要なのです。私たちは完全ではなく、罪を犯しており、神の栄光を受けることができない者だからです。
そして霊的な謙遜こそが根本です。神に謝ること、です。
「ああ、自分は神格の中に入っていける、神格と関われる(interact)」などと考えないことです。それはヒンドゥー教です。
2たす3を知るように神格を知ることはできません。どんな数学的なものも、やはり言語であり、たとえです。神の存在論的な本質ではありません。その描写にすぎず、描写しようとする試み、それも哀れな試みにすぎないのです。人間の知性には、それはできません。
ですから、本質について語るとき、私たちは神の言い表しがたさについて語っているのです。
それが神秘という言葉の意味です。神秘は無知という意味ではありません。
カテゴリーを取り違えています。神秘とは謙遜という意味です。私たちは神の前で謙遜な姿勢をとるのです。
ですから、聖書の中で28回使われているこのエネルゲイア、つまり神のエネルゲイアを理解するとき、私たちはここで神の愛と関わることができます。
それと関わり、授受作用を持つことができます。神の犠牲と関わり、それと授受作用を持つことができます。神の正義と関わることができます。神の憐れみや共感と関わることができます。
こうしたあらゆるものと関わることができ、神は私たちに恵みを与えてくださいます。神的な光を見ることもできるのです。
神は、神的な光を見るという恵みを与えてくださるかもしれません。
そしてこれらはすべて、授受作用の矢印です。これらはすべて授受作用の矢印なのです。
ですから私たちは、神的な光、つまり神の創造されていない光を見るという恵みを与えられることがあります。
それもやはり神の一部です。なぜならそれは、やはり神から来ているからです。それは、私たちが実際に神と関わっているところなのです。
西洋キリスト教は神秘を一つに押し込める
言っていることが分かりますか?
問題は、これが一つに押し込められてしまうことです。これが西洋のキリスト教の問題です。
ところで、私はこの分野全体で博士号を取るつもりでした。ですから、YouTubeのチャンネルを見てこの話をしているわけではありません。
2006年に、ハーバードでこのテーマの博士課程に進むつもりでした。三位一体論とダマスコのヨハネを仏教と比較するもので、ペリコレーシスを華厳仏教、毘盧遮那仏、普賢菩薩、文殊菩薩と比較するというものでした。
ですから私は、いわばこの分野の専門家のようなものなのです。私たちの、いわゆる「統一教会員」たちがこれについて話すのをたくさん聞きましたが、皆さんはカテゴリーをまったく理解していません。
皆さんは、この学問分野そのものを理解していないのです。だからカテゴリーの誤りを犯しているのです。
皆さんが悪い人たちだからではありません。この特定の分野で2000年にわたって使われてきた言葉を理解していないだけです。このことははっきりさせておかなければなりません。
西洋のキリスト教の問題は、すべてが一つに押し込められていることです。
これはトマス主義の世界から来ています。すべてが押し込められているのです。
西洋のキリスト教には、カトリックとプロテスタントがあります。どちらもトマス主義哲学を受け継いでいます。
トマス主義哲学は、神の本質とエネルギーは一つだと言います。神の本質とエネルギーは一つだというのです。
ですから、彼らには問題があります。先ほど話した問題が生じるのです。
すべてが一つなら、愛もその中にあり、意志もその中にあり、神的な正義も、神的な憐れみ、神的な恵み、神的な光も、そうしたものはすべてその中にあることになります。
そこでその問題が出てきます。意志の問題です。意志がその中にあるなら、外からの源を持つことはできません。何ものもそれに干渉できないのです。
ですから、すでに決定されていることになります。地獄へ行く人と天国へ行く人について、神の意志はあらかじめ定められているのです。ですから、私たちがそれに関与する余地はありません。
滅びるように選ばれた者の一人なら地獄へ行き、天国へ行くように選ばれた者の一人なら天国へ行くということになります。これがその問題です。
このモデルには、厳格な予定説が最初から組み込まれています。だからこそ、プロテスタントの世界では、ああした急進的な予定説が出てくるのです。
このモデルのもう一つの問題は何でしょうか?神的なエネルギーが本質の一部で、区別がないとすると、奇跡が起きたとき、たとえば神的な光や、弟子たちの上に下った神的な火のような場合です。使徒の働きには炎の舌が出てきますね。炎の舌が弟子たちの上に下ってきます。
そして彼らはそれと関わります。弟子たちの上に炎の舌が下り、彼らはそれと関わり、それと完全に交わりました。そうなると、彼らは神の本質と交わっていることになるのです。
つまり、神を神たらしめるものです。彼らは神の本質と完全に交わっていることになります。その問題は、もし誰もが神の本質にアクセスできるなら、私たちは皆キリストだということになる点です。
そうなると、キリストには何の特別さもなくなってしまいます。「ああ、それは量の問題だ」と言うこともできません。そういうものではないのです。
神を神たらしめるものを、小分けにして配ることはできません。
「自分は小さなかけらを持っていて、神がいちばん大きなかけらを持っている」などということはできないのです。
なぜなら、小さなかけらでも持っていれば、すでに神を、神の神的な本質全体を持っていることになるからです。分かりますか?
これらを、小分けにしてまき散らし、あちこちのガソリンタンクに注ぎ込めるような石油などの、物質的なカテゴリーで考えることはできません。できないのです。
こんなものは酷いたとえです。分かりますか?
お粗末な、非常に弱いたとえです。
当然、不十分なたとえです。
ともかくこの問題では、弟子たちは神的な本質と関わっていたことになってしまいます。分かりますか?
もし炎の舌によって弟子たちが神の本質に触れていたのなら、彼らはキリストと同じくらい特別だということになります。
つまり、キリストには何の特別さもないことになるのです。彼らは文字どおり、私たちの言葉、お父様の言葉で言えば、夜の神様のところを出入りし、夜の神様と交わっていることになります。
キリストだけがそこから来られ、キリストだけが完全に知ることのできる夜の神様とです。私たちではありません。
だからこそ、私たちにはキリストが必要なのです。
ですから私たちはキリストの力を守ります。
西洋キリスト教の、ホログラムの問題
では、キリスト教徒はこれをどう切り抜けたのでしょうか?トマス主義の世界は、これをどう切り抜けたのでしょうか?
彼らはこう言いました。「そうだ、同意する。私たちは神的な本質と実際に交わることはできない。そうなればキリストは無意味になり、私たちがキリストの立場に立つことになってしまう。だからそれはできない。それは明らかに、キリスト論の、そしてキリストそのものの根本的な教えを壊すことになる」。
では、彼らは何と言ったのでしょうか?「では、それはできないとしよう」と言ったのです。
では、炎の舌は何なのか?
彼らは、炎の舌は被造の像だと言いました。造られたもの、いわばホログラムのようなもので、私たちはそれと関わっているのだと。つまり私たちは、実際には神の本質と関わっているのではなく、いわばホログラム、神が造った像と関わっているのだと。それなら私たちは関わることができる、というわけです。
その問題は、もしこれがただのホログラムなら、私たちは永遠に神から切り離されてしまうということです。私たちは、神が造った被造のホログラムや像や絵と関わることしかできません。創造主と実際に関わることはできないのです。
これが、このモデルが抱える問題です。
エネルギーと本質を一つに押し込めるこのモデルでは、人類を神から永遠に切り離してしまったのです。永遠にです。そして当然、予定説などの問題もあります。
神の働き、作用とは関わることができる
しかし、神について、言ってみれば夜の神様と昼の神様を理解し、本質とエネルギーの区別を理解すれば、私たちは関わることができます。
神のエネルギー、つまり神の働き、神の作用と関わることができるのです。
愛、犠牲、恵み、神的な憐れみ、神的な光と関わることができます。
神はこれらを私たちに与えることができ、私たちはここでそれらと直接関わることができます。
これは直接的な関わりです。ホログラムや像が介在するのではありません。私たちは実際に神的なものと交わっているのです。
ただしそれは、神の神的な動き、神的なエネルギーとです。
他のために生きること。それは動きです。動詞です。他のために生きることです。
一方、夜の神様は取っておかれています。キリストのために取っておかれているのです。キリストのためにです。
皆さんの多くが、こうした質問をしてきました。皆さんはこのことで頭を悩ませてきました。
先ほども言ったように、こうした神学的な考察はどれも素晴らしいものです。
ですが、何より大事な点は、霊的な謙遜を持たなければならないということです。
皆さんの誰も、この問題を解決することはできません。本当に、解決できないのです。ですが、神的な謙遜を持たなければなりません。
つまり、キリストの前、そして神の前での霊的な謙遜です。
神秘は無知という意味ではありません。
神秘としてキリストの前に霊的に謙遜となれ
皆さんは普段の言葉の使い方を取り違えて、それを三位一体論の言葉に当てはめ続けています。
これはカテゴリーとしてまったく間違っています。
私たちが言っているのは霊的な謙遜です。
つまり、神の前では謙遜であり続けなければならないということです。神についてすべてを知っているわけではありません。自分がどれほど偉いと思っていようと、自分のたとえがどれほど素晴らしかろうと関係ありません。神についてすべてを知っているわけではないのです。
そのようなことを主張するなら、とてつもない霊的な傲慢をさらけ出していることになります。
だから誰もついてこないのです。そしておそらく、人生における人間関係のほとんどを台無しにしてしまうでしょう。人を遠ざけてしまうのです。
誰もが見抜くからです。皆さん、私たちが罪深い存在であることは、誰もが知っています。
「私たちは神について知らないことがある。それはキリストのために取っておかれている。そして私たちはキリストにすがる」と言える霊的な謙遜がないなら――そうです、私たちはキリストにすがるのです――霊的な訓練を始めてさえいないことになります。
要するに、伝統として、礼拝の後に頭でっかちな人たちが集まって神学談義をするだけ、というわけにはいかないのです。
妻との関係はどうでしょうか?どれほどの喜び、どれほどの笑いがあるでしょうか?
授受作用をし、三大祝福を果たすことに、どれほど成功しているでしょうか?
子どもたちとはどうでしょうか?子どもとの一対一の訓練はどうでしょうか?そうした関係は豊かに花開いているでしょうか?共同体での関係はどうでしょうか?
外に出て行っているのでしょうか?伝道しているのでしょうか?霊的な真理という点で実を結んでいるでしょうか?
いいですか、神学について思いめぐらしているだけなら……。私も神学者です。こうしたことは私にも理解できます。しかし、その不十分さも理解しています。
人間に可能な限り最善の描写をしたとしても、それを完全に知り、完全に描写することは決してできません。
できないのです。どんな描写を当てはめようと関係ありません。「真の愛」と10億回主張したところで、それで真実になるわけではありません。
私たちは神に対して謙遜でなければならず、キリストの立場を守り、保たなければなりません。
つまり、神格と完全に交わることができるのはキリストだけだということです。
私たちにはできません。私たちは神とそのような完全な交わりを持ってはいません。
しかし、神が私たちに恵み、愛、憐れみ、光、そうしたあらゆるものを与えてくださるという意味では、私たちは神との交わりを持っているのです。
そして神の性質、内的な本性(본성, ポンソン)、つまり内的な本質ではなく性相の中心核が、真の愛なのです。お父様はいつもそう言われました。
お父様はいつも、まさに「本性(본성, ポンソン)」という言葉を使われました。「本質(본질, ポンジル)」とは違うのです。分かりますか?
ですから西洋の皆さん、これらのカテゴリーを混同しないでください。西洋には問題があります。
皆さんは、キリスト教合理主義の立場、西洋の伝統から来ています。そこでは、すべてをペリパトス派の公理を通して知らなければならず、理屈を通してしか物事を知性へと取り込むことができません。
これが問題であり、だからこそ不十分なのです。神と比べれば豆粒ほどの小さな脳で、これを解決できるはずがないからです。申し訳ありませんが、どんな数学のたわごとを持ち出そうと関係ありません。
皆さんはやはり不十分であり、神の前では罪人なのです。だからこそ私たちは、謙遜の立場、何よりも謙遜から出発しなければなりません。
ですから私たちは実践しなければなりません。いつも神学論議ばかりするのではなく、実践して実を結ばなければなりません。
西洋の教会の皆さんは、ただ座って針の先に天使が何人座れるかを論じるためだけに教会に来たがっているように感じることがあります。
それは教会の目的ではありません。いつも神学を論じるためだけの場ではないのです。
それが波及効果を持つことは分かります。しかし、それには然るべき時と場所、つまり神学校があります。
教会が力を注ぐのは、関係を築くこと、共同体、証し、伝道です。分かりますか。まったく別の分野なのです。
私は三位一体の神学についてこうしたことを知っているかもしれません。
しかし、それが私の伝道にどう生かされるでしょうか?それはまったく別の分野です。
私たちは中国に来て伝道しています。ここにはすでに霊の子たちがいます。
しかし私は三位一体論について話しているでしょうか?皆さん、人に伝道するというのはそういうことではありません。
伝道は、基本に立ち返ることによって行います。
金のボタン、つまり、私たちが罪を犯したという事実、私たちが悔い改めなければならないという事実、そしてキリストの血こそが答えだという事実です。
キリストの血統と血こそが答えです。キリストが私たちのために血を流されたその愛によって、私たちは永遠のいのちを得、神の恵みを受け、今や私たちのただ中にある神の御国を得ているのです。
ですから西洋の皆さん、このキリスト教合理主義のようなものに、あまりのめり込まないでください。それを教会の文化にしてはなりません。
教会の文化は喜びであるべきです。人間関係の中で訓練していく場であるべきです。霊的な謙遜であるべきです。ただ神学論議をすることではなく、それをどう実践しているかに焦点を当てるべきです。
夫婦関係はどれほど幸せでしょうか?それは、私たちが話している聖書の重要な側面の一つです。夫と妻の関係の喜びです。
子どもたちとの関係もそうです。完璧でなければならないという意味ではありません。私たちの誰も完璧である必要はありません。
大切なのは、それをどう訓練し、どうよくなっているか、どう成長しているか、どうより素晴らしいものになっているかです。
そうして他の人たちがその実を見るとき、その実を分けてほしいと思うのです。
その輪に加わりたいと思うのです。
私たちの根本的な文化は霊的な謙遜
「ああ、私たちは解き明かした。あなたについてすべて知っている」と言う連中の集まりであってはなりません。冗談じゃありません。
だからこそ、そういう文化は嫌悪すべきものなのです。恐ろしいものです。そういう文化は人を遠ざけます。そして、そういう文化は霊的な傲慢をさらけ出すのです。
それは私たちの文化ではありません。
私たちの根本的な文化は霊的な謙遜です。
だからこそお父様は、私をそばに置くことをあれほど喜ばれたのです。私はいつもそれを示していたからです。それがお父様との関係における私の大事な部分でした。
今何かが理解できなくても、それを裁くことはしない。ただそれとともにいることを楽しむ。ただお父様とともにいることを喜ぶ、ということです。
西洋の皆さんは、いつも何でも頭で理解したがります。科学でそれを試みましたが、ミトコンドリアさえ理解できていません。身の回りの量子の世界の内側の働きも理解できていません。知らないことがあまりにも多いのです。そして、決して知ることのないこともあるのです。
ですから結局、神との関係に戻るのです。謙遜に戻るのです。神の臨在の中にいることに戻るのです。神に感謝することに戻るのです。
「お父様、ありがとうございます」。一日に何回それを行っているでしょうか?
一日に何回それを訓練しているでしょうか?それが肝心です。
そしてそれが、自分の考え方、話し方、振る舞い方、そうしたすべてをどう変えているでしょうか?
自分の考えに栄光を帰そうとするのではなく、神に栄光を帰し続けるにつれて、それらは変わり始めます。
「ああ、私はいまそれを発見した」。それは傲慢な文化です。私たちの教会に、そのような傲慢な文化はいりません。私たちが求めるのは霊的な謙遜の文化です。人々が入ってきてそれを感じ、「この人たちは本当に神に向かって歌っている。霊的に謙遜で、いつも自分たちの関係を磨き、福音、天の御国の福音を伝えている」と言いたくなるような文化です。
ですから皆さん、強くあってください。世界全体にとって、狂気の時代です。
私たちは、アメリカがこの時に強く立ち、これ以上災いを生み出さないよう祈ります。
トランプ大統領のために祈り、世界のすべての国々がキリストのもとに来るよう祈ります。
シオニストがいまやトランプを支配しているなど、私たちは破滅的な時代へと向かっていますが、それでも、神が王座に就いておられ、彼らは神ではないということを理解しなければなりません。
神が支配しておられるというのは、私たちもまた自由意志を持ち、5%の責任分担を果たしながら、神のみこころに加わっているという意味においてです。
ですから強くあり、霊的に謙遜であり続け、訓練を続けてください。
神の祝福とご加護がありますように。神の平和の御国が来ますように。ハレルヤ。
__________________________




